真面目、誠実、心を込めることの落とし穴ー真剣か深刻か

スピリチュアリズム、宗教、哲学などの思想を学ぶと、善悪の判断基準ができてきます。

最も本質的な事で言えば、自分自身のエゴが様々な問題や苦しみの原因を作り出していることに気が付きます。

もちろん、そこまで深く洞察できずに、単に書面にある事柄を文面通りに解釈し、頭の中だけで理解したような状態になることもあるかと思います。

しかし、そういった場合においても、恐らくそこに記載してある内容を実生活において実践し、なかなか物事が良い方向へ進まなかったり、逆に状況が悪化した場合には、少しずつ、自分の理解が浅かったり、偏った解釈をしていたことに気づかされるのではないかと思います。

そして、遅かれ早かれ、自分自身を振り返り、自分の言動や心の動きを改善しようとするときがやってきます。

具体的な行為としては、人や社会の役に立つことをしようとすることがあると思います。

そういった関連の書籍の中には、誠実に、心を込めることの重要性が説かれてるものもあるかと思いますし、もちろんそれは大切なことだと思いますが、心を込めるということは、少し方向性が変われば、執着するということにもなるかと思います。

自分自身が良い行いをしたと思っていたとしても、それをしてもらった相手の反応は千差万別ですし、結果が実を結ぶのがいつになるかを推し量ることはできません。

そして、一般的に言われる、真面目で誠実な人ほど、そういった結果に対して、一喜一憂してしまうものかもしれません。

しかし、そこで、もう少し、微妙な心の動きを観察してみると、自分自身の心が、何かネガティブな感情に動いていることが確認できないでしょうか。

真剣であればよいかと思いますが、深刻になっているのではないかということです。

晴れやかで、すっきりした感覚ではなく、何か重苦しいというか、気が沈むというか、そういったネガティブな感覚になっていることに気づくのではないかと思います。

いかに慈悲深く、奉仕の精神にあふれた人であっても、重苦しい雰囲気の人には、人は集まってこないものではないかと思います。

こういった繊細な心の変化にも意識を向けてみると、自分の周囲の人や環境に、また違った反応、変化が現れてくるかもしれません。

心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。(釈迦)

人間の精神にはさまざまな複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり進化があり、低いものが高いものに転換されていくのです。(シルバーバーチ)